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1978年初頭
高校2年の終わりのこと、暴威頭ホット・ラッツと言う、2つのパンク系のバンドが、同じステージに立ったのをきっかけに、合体し結成された。 
暴威頭からは、ヴォーカルの安達とベースの柴田(後アクシデンツ)、ホット・ラッツからはギターの小峰前田、ドラムの広橋でスタートした。 
バンド名は柴田と 広橋の発案により、「パイレーツ」と命名された。 少年文化会舘でのライヴの後、前田の代わりに、安達と広橋の中学時代の友人、 入江が加入した。 

1979年
「L-モーション・ラグ」と言うテレビ番組に出演が決定したとき、柴田が失踪し、代打として、小峰の旧友黒木がベースを弾いてテレビ出演を行なう。
その際、演奏を始める前に、安達は「今の博多のバンドはチャラチャラしてから・・・」とブチあげた。
その後、黒木の海外留学が決定し、
パイレーツのライヴによく足を運んでいた、広橋の高校時代の友人升谷がベースとして加入。 このとき彼は初めて ベースと言う楽器を手にしたのであった。
このころ、廣橋の同級生であり、ロッカーズのマネージャーをしていたスマイリー原島がマネージャーに付く。

1981年
西中洲の不思議屋で毎週土曜の深夜ライヴを行ない、2度目の「L-モーション・ラグ」出演を果たし、オリジナルを2曲演奏した。  練習は、天神西通の
不思議屋クラブを昼間に借りて行なっていた。 

1982年
ライヴ活動も精力的に行い、学園祭、福岡博覧会のイベント、天神の交差点の路上ライヴなどを行った。  そんななか、「中洲界隈天罰研究会」と言う、
自主制作映画のサウンド・ トラックの話が舞い込み、スタジオ19での録音を行なう。 ほぼ2日で、約20曲余りを録音すると言う強行軍であり、効果音まで録音した。
「中洲界隈天罰研究会」:原作は小林よしのり、主役は手塚治虫の息子の手塚真、この映画・サントラは、当時「11PM」で紹介された。その時のゲスト鮎川誠氏が、
気に入ってテープを持ち帰ったとか・・・  

1982年8月8日
映画完成ライヴをビブレ・ホールで行い、その直後に解散した。  パイレーツとしての達成感が得られた頃、小峰はそのギター・センスを更に生かす
ために、山部善次郎バンド、博多パラダイス、モダン・ドールズと渡り歩き、安達はメリケン・パンチャーズ、升谷は仕事に専念し、広橋は、当時
パイレーツのマネージャーであった原島のアクシデンツへ加入し各々の道を歩んだ。

1999年9月25日
福岡ダイエー・ホークスのリーグ優勝の日にメンバー全員で再会し、再結成の話が持ち上がる。

2000年5月28日
練習再開

2000年10月
小峰。ラジオのインタビューを受け、「今のストリート・ミュージシャンはチャラチャラ、チャラチャラ同窓会のごたあ。」
バンド再結成の熱い思いを伝える。

2000年11月5日
再結成後の初ライヴをドラム・ロゴスで行う。


2001年1月

後藤昌彦が正式加入。


2001年10月

升谷脱退、黒木直路 再加入

2003年8月

サポート・メンバーとして玉利俊哉加入(keyboard)

2004年6月

玉利俊哉 正式メンバーとなる。

2005年1月22日

CROSS FM スマイリー原島の Cross Sper Saturdayにゲスト出演 公共電波を私物化する。

2009年7月17日
後藤昌彦 脱退

2015年5月1日
小峰勇治、LOVE FM "Street Noise" にゲスト出演 ビートが合図が流れる。