だいたいが性格が素直ではないので、ものを見るときに斜めから眺める。だから流行りモノに対して時に嫌悪感を覚えることがある。別に自分に無関係なものであればなんとも思わないのだけど・・。
最近は生活の様式そのものに対して流行のことばがありますね。『スローフード』『スローライフ』『癒し』・・・割と僕が昔から関心を持っていた形態(むしろ生活そのもの)が"流行りモノ"としての言葉になってしまうと、とたんに「なんだか陳腐な言葉だなぁ〜」と思ってしまう。さらにそれを僕が仕事上使わないといけない場面に出くわすと、いつも別の自分が「もっとましな言葉を使え」と囁く。
時代の流れで今のように時間や気持ちのゆとりがなくなると、こういった概念が発生するのかもしれない。それはそれでいいと思うけど、時に『これをやらないと流行に遅れる』というような強迫観念のような形でやっている人たちを発見することがある。要するにカタチだけの人たちですね。こっちは意識してやっているわけではないのに、意識してやっている人たちに『こうあるべき』みたいに言われたくない。
有機栽培・玄米・雑穀でないと絶対ダメですよ。肉は体に悪いから・・・というような話を聞くと、『なぜそんなにかたくなになっているのか?』と思う。面と向かって反撃はしないが、もう少し柔軟な考えを持てないかとやんわりと意見したりする。
ジャンクフードを提供する『ファーストフード』あるいは贅沢な『グルメ』の対極として『スローフード』が現れてきたのは理にかなっていると思う。自然の旬のものをゆっくり食べる。うんうん。それはそうね。
恐らく昔の『ケ』と『ハレ』という概念が逆さまになった現象ではないかと思う。バブルの頃からずっと贅沢な食事をしてきて、それが日常の『ケ』になってしまったから『ハレ』に質素な食事をする事が贅沢なんだということで。
問題点は"かたくな"になった時点で、あれは良い食べ物・あれは悪い食べ物という区別をつけてしまうこと。でもね、食べ物には違いがないですよ。結局、日本は食べるものには困ってないけど、本質を捉える精神構造が稚拙なんだろうなと思う。
だって、外国では食べたくても食べれない人が沢山いるんですよ。『これは体に良くない』と言って、出されたものを残したら食べ物に感謝していない証拠だし、出した方は気を悪くする。バランスで考えて欲しい。おまけに残った食べ物はゴミになる。環境破壊的な現象だと思う。
『スローフード』とは多分、ただそこら辺にあるものを簡単に料理して、楽しい会話をしながらゆったり過ごす、そしてゆったりした時間や会話も料理の一部なんだと思っている。何も特別な有機栽培や特別な食材を使うことではないのだ。こんな風にある種の制限を加えると、とたんにちっとも楽しくない『ワクにはまった』形だけのものになる。食卓にあるものを食べものとして認識する心がないと『スローフード』なんてものは存在し得ない。
以前『竹林の癒しのエネルギーを』とか言って、竹を切るのを手伝うという人たちが来た。なんかうさん臭いなと思ったけど、手伝うならいいかと思って、裏の竹林に連れて行ったらちっとも役に立たない。しかし本人たちは『あぁ今日は働いた〜。』とか言っている。
飲み物をあげようと思って、近くの店にジュースやコーヒーを求めに行って差し出したら
『コーヒー?せっかく癒しの場に来ているのに〜』とかのたまうのである。悪い飲み物はいけないと言っているのだ。でも飲んでいた。んん〜、だったら飲むな。
理論が先行している人にはついていけないのである。
つい、いろいろ批判してしまったけど、世の中全体の流れとしては以前よりまぁまぁ良い方向を向いてきたのではないかとも思って、自分で納得する。
2003.06.10 |
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