遠くで、雀が鳴いた。 飽くことなく腕の中のぬくもりを眺め、その柔らかな髪を撫でていた友雅の腕がぴたりと止まる。 いつまでも自分の肌でそのあたたかな幸せを感じていたかったが、そうもいかなかった。 (夢の終わり、か) ―――朝が、くる。 闇の中で幾度も交わり、その全てを与えた。 彼女の思い人の代わりのつもりだった。それでいいと思っていた。彼女が自分の腕の中でほんのわずかでも安らぎを感じてくれるのならと。 「神子殿」 優しく声を掛けながら、まだ生まれたままの姿で自分の胸に顔を埋める彼女の頬を指先でさすった。 ん、と小さく不満そうな声を上げるが、もぐもぐとまた自分に寄り添うあかねの姿に、思わず笑みが浮かんだ。 構わないと思った。たとえ彼女がこの一夜を過ちだと思っても。朝日と共に、あの自分にだけ向けられた、彼女の素顔の―――少しだけ不器用で甘えたような笑みが、幻のように溶けてしまったとしても。 (構わないよ) 君の幸せを、誰よりも望んでいるから。 声に出さずにそう呟いて、ふたたびあかねの頬を撫でる。 「瞼を開きなさい、愛しい姫。星の姫に気づかれないうちに、お屋敷へ戻ると行ったのはきみだろう…?」 「や…ん……」 むぅと顔をしかめて、その頬をぐいぐいと自分の胸元へ押しつけてきた。 おやおやと、友雅は子猫のようなその仕草に思わず苦笑し、華奢ですべらかな彼女の背に手を回す。 「いけないよ、神子殿。また君に溺れてしまいそうだ」 「ん……友雅さんったら……」 ふふっと自分の腕の中で笑みをこぼすあかねの声に、どくんと心臓が跳ねた。 「私、ずっと寝てなかったから……ふぁ……ねむ……」 「神子殿?」 「おねが……もう少し、寝る……」 ふわぁと、欠伸をして、あかねは自分の腕の中で再び安らかな寝息を立て始める。 「まったく君という人は」 ほんの些細なことで、自分の不安をいとも簡単にとかしてしまう。 笑みと共に、その体をもう一度腕に抱き込んで、頬に触れるだけの口づけを与える。 (ならばもう少し、私も君の傍にいるとしようか) あかねの髪に、頬を寄せる。 守るように抱きしめた。 君がそう望むなら、別れの朝はまだ、きっと遠くの空にしかないのだろうと思いながら。 ■ そして、ほぼ同時刻。 しんと冴え渡った空気の中、じゃりと庭に敷き詰められた玉砂利を踏みしめるものの姿があった。 あかねの部屋を、遠巻きに眺めるその視線が何を訴えているのか、おそらく誰にもわからないだろう。 ただひたすら真摯に見つめ、まるで迷いを振り切るように彼―――頼久は小さく吐息をついた。 まだ日も昇らぬ時刻にあかねが起きていないことを知らぬ彼ではないはずだったが、その足は迷うことなくあかねの部屋へと近づく。 「……?」 庭と屋敷を分ける欄干のすぐ傍まで来て、頼久の目に留まったものがあった。 仕事柄夜目の利く頼久であったが、『それ』に手を伸ばして、ぐっと手の中ににぎり込んだ。 片手におさまるそれは、昨夜あかねがうち捨てたあの。 (香炉……) 梅花の香りがすでに染みついたそれから、漂う香りが大気に溶ける。 頼久はそれを、ひどく大事そうに手にしたまましばらくそうしていた。 徐々に日が昇る。 背に日差しの柔らかなぬくもりを感じて、やっと気づいたように頼久は顔を上げた。 転げ落ちたらしい蓋をそっと拾って合わせようとして、香炉の縁が欠けていることに気づく。 「頼久?」 「藤姫様……」 とすとすとすと、優雅な足音と共に欠けられた声に、もうそんな時刻かと驚く。 「まあ、神子様の香炉ですわね」 「はい」 「あら……縁が。使い慣れない神子様では、お怪我をなさってしまうかもしれませんわね。新しいものを用意させなくては……」 「藤姫様」 早速、と身を翻そうとする藤姫を、咄嗟に頼久は呼び止めていた。 振り返る藤姫に、なぜか頼久は慌てた。 「……よろしければこの香炉、私にくださいませんか」 一瞬きょとんとした顔をされ、なぜかいたたまれずに頼久は視線を伏してしまう。 はらりと広げられた扇の向こう、藤姫の花のかんばせがほころぶ。 「ええ、構いませんわ。頼久は、梅花の香がお気に入りでしたわね」 「は……」 有り難く、と、頭を垂れた。 手のひらのものを確かめるように、その硬質な手触りに指を這わせる。 「そういえば神子様、今日はまだお目覚めのご様子ではありませんの?」 「まだ、お顔は拝見しておりませんが……」 「まぁ。本日はお休みになられるのかしら……」 「では、私はこれで」 昨日は無茶をなされたのですからお体の調子が悪いのかもしれないと、あかねの様子を見に行こうとする藤姫の前で、さらに深く頭を下げた頼久はきびすを返す。 それを一瞬不思議そうな顔をして見送った藤姫は、妻戸をあけてあかねの部屋へと声を掛ける。 「神子様、藤にございます。お目覚めで……」 藤姫の慌てふためく声を、頼久はひどく冷静な気持ちで聞いていた。 香炉を袷の隙間から懐へしまい、藤姫の元へ駆けつける。 立ち上る梅花の香が、軽い目眩を頼久に覚えさせていた。 <続> |
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