4 りーりーりーと、夏虫が鳴いていた。 ひたひたと素足で板張りの廊下を歩む音が聞こえて、友雅は寄りかかっていた欄干からそっと身を起こした。 「少しは、落ち着いたかな?」 友雅の屋敷へつくなり、とりあえず落ち着かせねばと湯浴みを勧めた。なにより、濡れた姿のままでは風邪を引きかねなかった。 女房達の手により小袖を着せられたあかねは、所在なげに少し離れた位置で友雅を見つめ返す。 おいで、と手招きをすると、やっと傍にやってきた。少しの間逡巡してから、友雅の隣りにわずなか距離をあけて腰を下ろした。 「良い色の袷だね。苦しくないかい?」 「平気…」 ふるふると首を振るあかねの髪はまだしっとりと水分を含んでいて、揺らすと小さな滴が飛んだ。 時季はずれかもしれないが、女房達が選んだのは若草色の小袖。白いあかねの肌に、軟らかく映えた。 「まだ、目が赤いね?」 手を伸ばして頬を撫でると、ぴくんとあかねの体に緊張が走るのがわかる。 「あの、友雅さん」 「なんだい?」 触れられることは嫌ではないのか、落ち着かない様子ではあるもののその手を払おうともせず、あかねは問いかけてきた。 瞳に浮かぶのは、不安という言葉。 「……藤姫のお屋敷に、連絡しないで欲しいんです」 「なぜだか、尋ねても良いかな」 「それ、は……」 口ごもってうなだれてしまったあかねの頬から、友雅はそっと手をのぞいた。代わりにその頭を優しく撫でる。 「それは?」 促すと、ぽつぽつと言葉を紡ぐ。 「も、夜も遅いし……私が脱走したこと、誰も……しらない、し。みんなをこれ以上心配させたくないし……」 湯浴みをしながら考えたのであろうその言い訳に、友雅はちりちりと胸が焦げ付き始めるのが解る。 あかねを腕に抱いて、馬を駆っている間から考えていたことだ。 あかねがこれほどまでに追いつめられ、屋敷へ戻りたがらない理由。 ―――涙の理由。 ―――深夜の川にはいるほど、彼女が消したかった物。 どう考えても、たったひとつの理由しか思い当たらなかった。 友雅は、ひとつの賭けにでる。 「頼久と、なにがあったんだい?」 「っ!」 びくりと、あかねの肩に衝撃が走った。 怯えるような目で、友雅を見つめる。 (当たり、か) できればそうであって欲しくなかった答えに、友雅は内心苦笑しながらあかねの頭を撫でていた手をどかす。 代わりに、手の中の扇をぎゅっと握りしめた。 「神子殿が望むのなら明朝まで土御門の屋敷へ連絡はしない。誓って約束しよう。だが私は―――君の涙の理由を、見過ごすことは出来ない」 「・・・ぅ」 また涙をためるその瞳のまま、あかねはぶんぶんと首を横に振った。 「神子殿、君は何に苦しんでおいでなんだい?私では、力になれない?」 「っがう…」 「神子殿?」 「私、友雅さんにそんな風に言ってもらえるようなコじゃないっ!!」 絞り出すようなその訴えと共に、大粒の涙があかねの瞳から溢れる。 そしてその涙を手の甲で乱暴に拭うと、慌てるようにその場に立ち上がった。 「待ちなさい、神子殿!」 「いやっ、離してぇっ」 今にも駆け出しそうなあかねに、友雅も慌てて立ち上がってその体を抱きすくめるように捕らえた。 もがくあかねを、男の力で無理矢理腕の中で閉じこめる。 「ダメなの、友雅さんの中の『私』まで嘘にしちゃ、ダメだからっ」 「神子殿、落ち着きなさいっ」 「うっ、もう嫌なのっ。頼久さん傷つけただけで、も、ダメだから…っ。わ、私が傷つけた……。もうダメなのっ、嫌なのっ」 「神子殿……」 わあああと、大声で泣き出してあかねは床へと崩れ落ちた。 お願い離して、私を見ないでと繰り返しながら泣くあかねの悲鳴のような声に、友雅は胸が潰れるかと思った。 「馬鹿なことを…!」 するりと腕の中から抜け出したあかねを、強引にその身を起こして腕の中にかき抱いた。 今の言葉で、察しはついた。 おそらくあかねはぶつけたのだろう。……あかねの、秘めていた想いを頼久へ。 (まさか、拒絶を?) 信じられない気持ちで、私が頼久さんを傷つけたと泣くあかねをきつく抱きしめる。 頼久が、あかねに好意を寄せていないはずがないのだ。あれほどあの堅い頼久が本心を見せる相手に、惚れていないはずがない。 「神子殿、言いなさい。なにがあったんだ!事と次第によっては、私は頼久を…」 「ちがうっ!!」 許せそうにない、との言葉は、あかねの悲鳴にかき消された。 「違う、頼久さんは悪くない!!私が……私が頼久さんの信頼を裏切ったのっ……あんなに大事にしてくれたのに、触れちゃいけないって、そしたら終わりだってわかってたのに!!」 大きな目から涙をぼろぼろとこぼしながら、友雅に訴える。 「今の私は、頼久さんが大事にしてくれた私じゃないから……っ」 「っ!」 もう、この瞬間に頼久があかねを拒絶した理由などどうでもよくなっていた。 全身全霊で自分を責め否定するあかねをどうしようもなく、ただ強くかき抱いた。 うなじに這わせた手と、腰に回した腕できつく自分に押しつける。 見たこともないあかねの激情に、翻弄されないようにと己を律した。 これが天真の言う、仮面を剥いだあかねの姿なのか?あれだけ、八葉の心を柔らかな光で溶かしていったあの龍神の神子の、本当の姿? (弱く脆い、まだたった16の……!) 逃がすまいと思った。離すまいと思った。やっとみつけた、本当に救われなくてはならないあかねの本音を。 どれくらい長くそうしていただろうか。あかねを抱きしめている感覚も消え、膝に触れる床の感覚もなくなった。 きつく抱いているうちに、次第にあかねの泣き声が小さくなった。 それは嗚咽に変わり、すすり泣きになり、やがて静かになると、そっと友雅の胸を腕で押した。 ごめんなさいと呟いて、そっとあかねは顔を上げる。 「友雅さんっ?」 そして、ひどく驚き、次の瞬間には顔を困惑でいっぱいにした。 「どうして?友雅さんっ」 頬に触れるあかねの手のひらの感覚で、はじめて友雅は、自分が泣いていることに気づいた。 己の手のひらでそれに触れても、止まることなく頬を伝う。胸から溢れてくる想いが、それをとどめてくれない。 「神子殿……」 掠れる声で、名を呼んだ。頬に触れる手をそっと掴み、指を絡ませる。 「君が好きだ」 「!」 突然の告白に、あかねが赤い目を見開いた。 止まらない想いというのはこういうものなのかと、あかねを見つめる。 どんなあかねを見ても、けして変化することのない想い。むしろ、本音で号泣する彼女を見てその愛しさは募るばかりだった。 「好きだ……」 震える言葉で紡ぐことしかできない。気の利いた言葉も、あかねの心をやわらかく包む言葉も、なにひとつ浮かばない。 ただ、自分の言葉の真実があかねに届けばいいと、それだけしか。 「……さっき、見たでしょう?私は友雅さんにそんな風に言ってもらえるコじゃないんです」 友雅に絡め取られているのとは逆の手のひらで、あかねはひどく落ち着いた声でそう言うと、友雅の頬を伝う涙を拭う。 「本当の私は、すごく浅ましくていやらしい。好きな人に触れたくて仕方なくて、我慢できなくて、結局傷つけた。だから私は……」 言葉で伝わらないのならと、友雅は強引に腕を引いてあかねを抱きしめた。 「想う相手に触れたいと思うことの、どこが浅ましくていやらしいんだい?」 「友雅さん……」 「ならば私も同罪だよ。君に触れるだけで、こうも欲望が膨らむ…」 抱きしめたまま、頬に指を這わせた。 柔らかなその感覚に、目眩がする。 「私を受け入れてはくれまいか。―――頼久に焦がれる君ごと、私に神子殿をくれまいか」 「そんな、こと……」 ためらう瞳を、じっと見つめた。 そして、静かにやさしく、ふれるだけの口づけをあかねの唇に落とした。 かすかに開いた目に映ったのは、戸惑うように視線を揺らめかせたあと、瞼を閉じるあかねの姿。 抵抗は、なかった。 「私に触れられるのは、いやかい?」 頬を染め首を横に振るあかねを見て、この胸からあふれ出る感情をなんと呼んでいいのか友雅はわからなかった。 愛しいだけの想いとも違う。切ないだけのそれとも違う。 ただ、膨大な熱量に突き動かされるように、再び唇を合わせた。 頬に、瞼に、額に、唇に。ついばむように触れる口づけに瞳を閉じて、あかねは友雅の首筋におそるおそる腕を回す。 「―――友雅さんなら、いいよ」 こんな私を見てもそれでもいいって本当に言ってくれるんならと、あかねは言う。 頼久を想うあかねの、それは友雅に捧げられる最上級の言葉だった。 「神子殿…!」 たまらずに深く唇を合わせた。 はじめてだろうその行為にびくりと身をすくめたあかねを、そのまま廊下の床にゆっくりと押し倒した。 目を開こうとするあかねの瞼を、そっと手のひらで覆う。 「友雅さ、ん?」 「そのままでいなさい」 とろけた声のあかねにそう告げて、友雅はそっと首筋から耳元へ唇を這わせた。 「んっ」 甘い声を漏らすあかねの耳元で、吐息のかかる間近、友雅は囁く。 「頼久だと思いなさい…」 「そ、んな……あっ」 濡れた舌で耳朶を舐め上げられ、あかねの声も濡れた。 目を開くことも許されず、ただ友雅の触れる指先や唇にあかねは翻弄される。 「この唇も、この手も」 「友雅さ…んっ」 「すべて、頼久のものだと」 「は…っ」 息を乱すあかねに、友雅も心をかき乱された。 自虐的な気持ちは欠片もない。 ただ、あかねが望むことをしたいだけだった。 「愛しいよ、私の白雪……いや、頼久ならこうは言わないね」 ぎゅっとあかねが目を閉じていることを確認して、そっと友雅はその手を離し。 自由に使える両手で、あかねの腰帯をするりと解いた。 「『お慕いしております、神子殿』」 闇の中、あかねの白い体に友雅の色が溶けていく。 床に散らばった衣が、ぼんやりと花のようにそこにあった。 <続> |
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