●「田主丸だより」2003年E 9月号●

僕がこの田主丸に越して来る1年ほど前に『山苞の会』という会が出来ました。基本的に『村おこし』的な経済主体の発想ではなく、耳納連山の自然とその麓の『山苞の道』そこに広がる文化を大切にするのがこの会の趣旨です。当初から何をするにしても会員がお金を出し合って、自分たちで方向性を打ち出して実行していくところに惹かれました。

僕は組織や団体に属するのがキライなのですが、自分の住む環境は美しくあって欲しいし、やはり経済主体ではないところに惹かれて、すぐに入りました。もう8年も経つとそれなりの軌跡が残っています。

会の名前の山苞(やまづと)の"苞"の由来は、昔の納豆を包んでいたわらの包みのようなものあるいは"みやげもの"を指します。つまり耳納連山の恵がぎっしり詰まった地域というふうに解釈してください。

会の活動の中で僕の印象に残っているうちの一つは"道沿いの多すぎる看板を一つにまとめよう"という方向を打ち出したことでした。あちこちの看板の持ち主と交渉して、山苞の道の中心の十字路に集約させました。僕は口ではなく手先が効く方なので、そのかなり大きな木製の看板の形づくりと文字の彫り込みを会の数人の工芸作家と一緒に製作に参加しました。各自仕事が終わって暗くなってから夜な夜な集まっての作業でした。

柱を立ててその看板の取り付けを完了したときはなかなか感動的でした。いろんな人が自分の得意な分野で走り回って出来た結果ですから。数ヵ月後には筑紫哲也氏がこの『看板』を取材に来ました。『都会ではネオンや看板がこれでもかというくらい増え続ける中で、それをいかに減らしてまわりの自然の景観を保つか努力している地域があります・・』というような内容でした。ほんの数秒間の映像でしたが、高く評価してくれる人がいるのは嬉しいことです。

『経済は後から付いてくるもの。』これは会員の何人かがいつも口にする言葉ですが、この会の活動のほとんどは道沿いの清掃や花植え、広場の草取りなど比較的地味なものが多いです。年に1回のイベント『来てん見てん山苞の道』も自分たちで企画・運営して結果的に後から行政の評価と援助が得られたようなものです。今や『住民主導型』というのはそれほど目新しいものではありませんが、当時は全国的にまだ行政主導のイベントが主体だったので結構斬新だったと思います。

そんな会の活動は平成9年に 国土庁(現 国土交通省)主催「第12回農村アメニティコンクール」特別優秀賞の受賞という形で結実しています。

この会の活動の話についてはもう少し話を続けたいと思います。

みんなで苦労して作った
山苞の道の看板
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九州のムラで紹介された 山苞の道の記事

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