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シアトル万国博覧会
シアトル万国博覧会は、1962年4月21日から10月21日までアメリカ合衆国・シアトルで開催された国際博覧会(第2種一般博)である。

テーマは「宇宙時代の人類」。シアトルのシンボルタワーであるスペースニードルはこのときに建てられた。24ヶ国が参加し、184日の会期中961万人が入場した。

Wikipedia参照
シアトルの歴史
シアトルの歴史
シアトル・シアトルの歴史
 
シアトルの歴史
シアトルの歴史は今から160年程前。スクワミッシュ族などのネイティ ブ・アメリカンがくらしていた。開拓民たちの入植によって、 飛躍的に街も様変わりしていった。

街の随所にはその歴史の足跡を垣間見ることができる。 1851旧年、イリノイ州出身のアーサー・デニーをリーダーとす る開拓者たちがウエスト・シアトルの西にあるアルカイ・ビ ーチに上陸したのがシアトルの歴史の始まりと言われている。

しかし、彼らの生活は風雨見舞われたいへん厳しいものでした。 そのため、翌年にはアルカイ・ビーチよりも温暖で住みやすい パイオニア・スクエアヘ拠点を移すことになる。その後 本格的な街づくりが始まった。

以前からこの地には、多くのネイティブ・アメリカンが暮らしており 開拓移民と友好的であったスクワミッシュ族の酋長シールス の名にちなんでシアトルの名がつけられた。 シアトルの街を歩いていると開拓者やネイティ ブ・アメリカンの名前を多く見かけ、通り名や地名となり 現在に至っている。

シアトルの歴史 シアトルの歴史 1852年、ヘンリー・イエスラーの功績 で、発展していくことになる。ヘンリー・イエスラーは当時製材所を経営してい て、シアトルは木材の集散地となっていた。材木を有効に利用できた 人々は街として形成されていくにつれ、人々の生活にもゆとりがでてきた。 しかし順調に思えた街づくりも海沿いに住む住民の頭を 悩ませていたのが汚染だった。

日に2回、満潮になると下水道が逆流してきて配管の水圧が変わり 街は汚水で汚されることになる。配管の水圧などに問題が あったと思われるが、それが原因で思わぬ災害をもたらすことになる。 1889年に起きた火災で、街が火の海と化してしま った。これも水道のシステムに問題があったために消火活動が遅れ た結果だった。

こういった教訓をもとに道路を高くしたりなどの工夫が施され その中に新しい下水道を通すことで、汚物の逆流を防ぐという 処置が施された。そしてシアトルは住み良い街へと変貌を 遂げた。

1897年頃になると、住み良くなったシアトルは 金鉱のあるアラスカを目指す人立ちの中継点となり、 街は次第に活気に満ちていった。

シアトルの歴史上もっとも経済的な発展を遂げる時代を 語る上でかかせないのが、ボーイング社だ。 20世紀になると、シアトルの産業はめまぐるしく変わっていく。 当時のボーイング社は旅客よりも軍事的な需要が高く、 戦争による軍需産業の発展が大きかった。

その後、1975年にはマイクロソフト社が設立されるなど、 ソフトウエアやコンピュータの産業が台頭する。 現在ではバイオ・メディカル産業な ども含め、最先端のテクノロジー産業の聖地として 世界的にも大きな役割をになっている。

シアトル歴史年表
1792年:イギリス人の船長ジョージ・バンクーバーが初めてピュージェット湾を調査
1851年:アーサー・デニーをU−ダーとする開拓移民がアルカイ・ビーテに上陸
1852年:アーサー・テニー−行は拠点をパイオニアスクエアヘ移す
1861年:ワシントン大学設立
1865年:シアトル政府誕生
1866年:シアトルの名前の由来となったシールス酋長死去
1883年:女性が選挙権を獲得
1889年:シアトル大火災
1892年:シアトル大学設立
1893年:グレート・ノーザン鉄道が敷設
1962年:世界博覧会開催
1970年:シアトル出身の人気アーティスト、ジミ・ヘンドリックス死去
1975年:マイクロソフト社設立
1980年:セント‥ヘレンズ火山噴火
1990年:キャピトル・ヒルを拠点にグランジ・ミュージックが世弄中へと広まりをみせる
1993年:第5回APEC(アジア・太平洋経済協力)会議開催
1999年:第3回世界貿易機構(WTO)閣僚会議開催/セーフコ・フィールド完成
2001年:イチローがマリナーズヘ入団
2002年:ボーイング本社を工ベレットからシカゴに移転
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シアトルの歴史概要
シアトルは、この地に先住したインディアン部族、「スクアミシュ族」のシアトル酋長(Chief Seattle)の名に因んでいる。スクアミシュ族は19世紀にアメリカ連邦政府によって保留地へ強制移住させられ、彼らの土地にシアトル市が建設された。強制移住を受け入れさせられた部族がこの地を離れる際の、シアトル酋長の演説は非常に有名である。

かつては「グレート・ノーザン鉄道を父とし、日本郵船を母とする。」の言葉で有名なように、この両社によって発展を遂げた。

Wikipedia参照
ボーイング社の発展と経済
狭い海峡に守られたピュージェット湾は大陸氷河によって削られてできた天然の良港で、古くから貿易港、軍港として栄えた。海流の影響で高緯度の割には気候は穏やかかつ、年間を通して安定した降水量がある。

そのため、森林資源が豊富で木材工業、紙・パルプ工業が発展した。日本との貿易の歴史も古く、第二次世界大戦前、戦後まもなくの間氷川丸が寄港していた。日本郵船で大きくなった町とも言える。

戦後は航空機産業が発達し、とりわけボーイング社の誕生は市を大きく変えた。ボーイング社の発展における当市への影響は計り知れないほど大きく、関係者は人口のおよそ3割を占めるともいわれ、この社の経営が市の経済を大きく左右している。

1971年のボーイング・ショックは市財政を大きく揺るがした出来事でもあった。また、近年における本社のシカゴ移転は大きな衝撃となった。

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